ボクの死生感

「死」とは「旅」に出るようなもの

「死」とは「旅」に出るようなものではないでしょうか。

 

家族と別れ、もう会えなくなります。一緒に時を過ごすことはできなくなります。離れ離れで連絡も取れなくなります。そんな「旅」です。戻ってこれるかどうかは、宗教観によって大きく異なります。話が複雑になるので、今はその話題はおいておきます。

 

どんな人も、必ず一人で「旅立ち」ます。でも、必ず「旅立つ」ことは事前に分かっているので、ちゃんと準備できます。向き合って準備する勇気があれば。

 


Travel / Moyan_Brenn

 

「旅」のために「準備」できる

私の友人は、海外へ移住しましたが、前日までまったく準備していませんでした。その度胸には驚きました。前の日になって、パソコンを詰めようとして、スーツケースに入らなくて、新品のパソコンを置いていった人です。なかなかそういう人はいませんが、逆にかなりの海外向きの人だと思いました。私は真反対の性格です。相当に準備していないと、旅などいけません。早速話がそれていますが・・(汗)、

 

死も「旅」に例えることができるとすれば、「準備」ができるということを知ります。

 

よく、医師は「がんで死にたい」ということがあります。ガンは余命がわかり、死が前からゆっくり近づいてくるので、それに向けて用意が出来るというものです。交通事故や突然死なら、自分も家族も覚悟ができないまま逝かざるを得ませんが、用意できれば、ゆっくりその日に備えられます。実際にがんで闘病している人のことを考えると、気軽にそんなことは言えないわけですが。ひとつの真実であるとも思います。

 

いつ旅立つのかが大体でも見えているのなら、その日に向かって、できることを全部行いたいと思います。【書評】死ぬときに後悔すること25(大津秀一)では、余命を宣告されてから、したいことを全部した、それでもまだ、死なないのでやりたいことの「2周目」に入っているという男性の話が出てきます。ある意味で、そのような「旅立ちの日」の迎え方は理想かもしれません。

 

 

ジャック・ニコルソン、モーガンフリーマンを主演に迎えた「終活」映画といえば「最高の人生の見つけ方」です。余命6ヶ月を迎えた二人の男性が、「やりたいことリスト」にもとづいて・・・最期の冒険旅行に出かけるというストーリーは、「死」を「旅」に例えたひとつのメタファになっています。これを見た人の多くが、自分はほんとうに「やりたいこと」をやっているかを考えさせられるでしょう。

 

映画は、映画ですから、お涙頂戴的に描きますが、実際に病院で「死」を迎える場合には、こうキレイには行きません。どんどんと弱っていき、身体がしんどくなり、うごけなくなり、食べられなくなり、早く逝きたいと言い続けながら逝くことになります。そこで、考えておきたいのは、「余命」がわかってからではなく、今から準備できるということです。

 

「死」というゴールを見据えて、「今」、本当に「やりたいこと」にもとづいて、やがてくる「その日」には、満足の行く人生だった!といえるように生きるということです。

 

実際に「死」は、がんのように、覚悟をした状態で訪れることもあれば、突然、訪れることもあります。ある意味では、毎日、覚悟しており、毎日、毎日を、決して悔いなく生きなければならないということを実感します。上述の書籍で取り上げたように、「後悔」するわけには行きません。たった一度の人生において。そうじゃないですかね。

 

 

 

「別れ」を告げる時間は生きているうちに

「死」を「旅」だと考えれば、愛する人との「別れ」を惜しむ時間もちゃんと取りたいもの。よくお葬式のことを「お別れ」「お見送り」というけれど、私は、これはちょっと違うと思っています。もう、その時には、こっちには意識はない。どんな言葉をかけてもらっても返答もできない、愛しているを伝えることもできない。なんだかんだいっても、それが事実だよね。それは「お別れ」とは言わないよね。

 


exit this way / spinster cardigan

 

だとすると、「お別れ」は生きているうちにしなければなりません

 

このサイトでも書評していますが、お別れは生きているうちに(【実録】一円も使わない終活 がん告知から直葬)この本には、良いアイデアが載っています。がんで闘病したご主人が、なくなる前に、親族を呼んでこれまでの感謝を伝える、一緒に住んできた家族とは、病室で別れを告げる。生きているうちに、ともに良い「お別れ」ができた、そう感じたという記録が載せられています。

 

だからこそ、最後にご主人が亡くなる寸前には奥様は昏睡状態のまま逝かせてあげようと思います。痛みなく苦しみ無く眠るように行ってほしいと、もう「お別れ」はすんでいるから。亡くなって納棺の儀には、立ち会いません、「お別れ」はもう済んでいるから。このような気持ちになれたのは、生きているうちに悔いのない「お別れ」をしたからだと思うのです。

 

 

闘病しているとしても、どこかで、もう「旅立たなければ」ならないことに人は気づきます。その時には、時を移さずちゃんと「お別れ」したいものです。今までの「感謝」も。そして愛情も伝えたいじゃありませんか。強がって、最後までちゃんと「さようなら」も言わずに行くのは、家族にとって失礼じゃないですかね。最期は、お世話になった一人ひとりにご挨拶をして、それがかなわなければ、お手紙を書いて「旅立つ」というのもひとつのあり方かもしれません。

 

双方満足の行くお別れのためには、決して忘れてはいけないこと。

 

「生きているうちしかお別れはできない」

 

このことを心に刻み込んでおきたいと思います。それができれば、「お見送り」「お別れ」と称して、豪勢な葬式を催す意味など無いことに気づきます。上述の本は、直葬に関しても多くのことを書いていますが、そのような「お別れ」をしているからこそ、まったく儀式の無い、あっさりした直葬を納得の上行えたのだということに気付かされました。

「旅だった人」に縛られない

「死」を「旅」だと考えるなら、もう「旅だった人」に縛られないということも大事です。そして「旅立つ人」も残された人を縛らないことです。

 

遺言を書くことが大流行ですが、ただ自分の思うとおりに、家族に遺志を遺したいというだけでは、迷惑をかけます。「立つ鳥後を濁さず」といいますが、良いお別れができて、旅だったその人の指示が、細かく細かく記されていたら、家族は萎えてしまいます。死後までも、家族を縛る権限はありません。と、私は考えmす。

 


Farewell / L'Orso Sul Monociclo

 

また法要やお墓参りや、思い出してくれるのはありがたいのですが、霊をなだめてもらう必要なんてありません。恨んで家族に乗り移ったり、成仏できなかったりしないのですから。旅に出ているのです。ただ、それだけなのです。そうであれば、いつまでも、引きづって生きるのはやめてほしいのです。できるならば、忘れないでほしいけど、たまに良い思い出と共に、お別れの記憶と共に思い出してもらえば、それで十分じゃないだろうか。そう思うのです。

 

葬儀業者も宗教者も、死者を生きている人のように(言ってみれば、旅立っていない時と同じように)扱うから、いつまでたっても、思い切りができません。もはや歩んでいる道は違うし、同じ場所で生きていません。そうであれば、いつまでも引きずらないでほしいのです。もうちゃんと「お別れ」しているのだから。そう割り切って生きることができれば、きっと遺族も幸せになるに違いありません。

 

死を「旅」にたとえて考えると、今、なすべきことが見えてきます。また、死んだ後にしなくて良いことも見えてきます。私が、「直葬」を選んでいるのには、こうした死生観も関係しているのです。

 

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